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高松高等裁判所 昭和52年(う)310号 判決

控訴人 原審弁護人

被告人 李雲男

弁護人 猪崎武典

検察官 藤井一廣

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、記録に綴つてある弁護人猪崎武典作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

一  控訴趣意第一点は、原判決が原判示第一の旅券法違反(海外旅券の不法入手)、同第二の出入国管理令違反(不法入国)、及び同第三の外国人登録法違反(登録不申請)の各事実について、いずれもその犯意(故意)を肯認した点に事実の誤認があると主張し、その要旨は、被告人は大韓民国(以下、これを単に韓国と略称する)の国籍を有する両親間に生れた同国籍を有する外国人であつたけれども、かねて同国ソウル市の被告人宅の近くに居住していた日本人の橋本房子から同女の本当の子即ち養子になつて一緒に日本へ移住し、老後の世話をして貰いたい旨を懇望され、同女に対する情愛によつて他意なく合意し、それに必要な手続一切を同女に代行して貰つた結果、実際の手続がどのような方式でなされたか知らなかつたが、同女より自分の子供として入籍できた旨知らされ、日本人である橋本雲男名義の日本国への入国旅券も交付されたので、もとより適法に日本国籍を取得したと信じて日本へ入国し、爾来、日本人として日本国内での居住を続け、本件の容疑で検挙されるまで、自己が日本人であることにつき何らの疑念を抱かず、本件各犯罪の日時当時も自己が外国人であることの認識がなかつたから、右原判示第一、第二の各犯罪については、犯意の点につき事実の錯誤があり、故意の成立が阻却されるし、同第三の犯罪については、犯意の点につき法律の錯誤があることになるが、被告人においてその外国人登録申請をしないことが違法でないと信ずることは無理からぬところであつたといえるので、これまた故意が阻却されるものと解すべきであるから、結局被告人は本件各犯罪につき犯意がなかつたものとして無罪とすべきものである、というのである。

そこで審案するのに、原判決挙示の関係証拠を総合すると、原判決認定の各犯罪事実について、その外形的事実はすべて争いもなく、十分の証拠があつて、これを肯認することができる。そして、唯一の争点は、右各犯罪の犯意の有無、すなわち被告人がその各犯行当時韓国に国籍を有する外国人であるとの認識を有していたかどうかの点にあるので、以下右争点につき審究する。

(一)  当裁判所の認定した事実

記録、及び当審における事実取調の結果を総合し、右犯意の存否認定に関連する次の諸事実を認めることができる。

(1)  (被告人の出生と経歴等)

被告人は韓国人の父李永錫(生年月日不詳。本籍、ソウル特別市東大門区新設洞五〇)、同母崔吉順(西暦一九一二年((大正元年))生、以下日本の年号のみで表示する)間の末子として昭和二四年八月三〇日韓国ソウル市で出生し、両親のもとで養育されていたが、同三八年ころ父が他の女性をつくつて別居後は母の手で養育され、さらに母が同四二年初めころ死亡した後は同市在の次姉金雲淑(昭和九年生)宅に寄食し、同四四年三月、同地方の大東商業高等学校を一九歳で卒業したが、これより先の同四二年初めころから韓国語も話せる橋本房子の営むうどんの屋台店に出入して同女と親しく交際するようになり、同校卒業後の同年中に徴兵検査を受けたが、肺結核のため体格等位甲、乙、丙のうち最下位の丙として徴集免除となつて、喫茶店のアルバイト等をする一方、引続き橋本房子の屋台の手助けなどもして、同女との交際が一層親密化していつたが、当時被告人は殆んど日本語を理解できず、まして日本国法制等の知識もなく、また日本国内にその縁者、知人などは全く存在しなかつた。

(2)  (橋本房子の経歴等)

橋本房子(大正一〇年一二月一〇日朝鮮京城府で出生((父母とも日本人))。本籍、高知県土佐市宇佐町宇佐一、二五〇番地)は生来の日本人であるところ、かねて内縁関係にあつた朝鮮人尹吉同(年令不詳。本籍、朝鮮以下不詳)とともに昭和二〇年六月末ころ大阪市から朝鮮京城府(現在韓国ソウル市)へ移住し、自ら李福順と称して韓国独立後も同地に居留し、尹吉同との間に長男東秀(昭和二四年一二月生)、長女菊姫(昭和二六年一月一日生)、二女淑姫(昭和二九年二月八日生)の一男二女を儲けたが、尹吉同には既に正妻(韓国人)がいたため婚姻できず、右三人の子を尹吉同とその正妻の間の子として出生届をしていたが、やがて尹吉同に捨てられた後は、三人の子を同人のもとに残して、ソウル市内で屋台のうどん店を一人で営み、貧苦の生活を続けていた。ところが、昭和三九年ころ橋本房子は生活苦のため睡眠薬自殺をはかつたが未遂に終わり、それがきつかけとなつて在韓日本婦人団体芙蓉会に救助の手を差しのべて貰つたことから同会の会合などに出入するようになり、その会員らの話しによつて、自己が韓国人男子との間に出産した子でも、婚外子として大使館へ出生届をすれば、容易にその子を日本人として日本国へ連れ帰ることができる旨を聞知したので、その実子三名を伴つて日本へ帰りたいと考え、芙蓉会を通じ、以前居住していた大阪市にいると考えていた親戚の身元引受人の所在調査を依頼していたが、その調査がはかばかしく進まないまま、昭和四二年暮ころその日本帰住の決意を東秀ら三人の子に告げて、一緒に日本に引揚げることを相談したところ、三人とも日本へ行く意思のないことを表明するに至つた。そして、そのころ東秀は前記のように同年初めのころから橋本房子と親しく交際していた被告人とも交遊して、同人が日本へ行きたい意向をもつていることを聞知していたこともあり、確たる身寄りも生活力もない橋本房子を単身日本へ帰すことを心配して、同女に対し自己の代りに被告人を日本へ連れて帰り、老後の面倒をみてもらうよう勧めるようになつた。

(3)  (橋本房子が被告人を同伴し、日本に引揚げるに至つた経緯と引揚後の状況等)

橋本房子は東秀の勧告もあり、かつ毎日のように訪れてくる被告人の気心も知つて、次第にわが子同様の情愛をもつようになり、昭和四三年初ころ、被告人に対し東秀に代つて一緒に日本へ移住し、老後の世話をして貰いたい旨を要望した。ここにおいて、被告人は母崔吉順と死別した上、予て他の女性と同棲していた父李永錫からも、全く放置されていて頼りにできず、韓国でのまともな就職も望み難く、一方橋本房子より日本ではよい職場のあることなども聞かされていて、日本での生活に希望をいだくとともに、同女の子(その真意は養子)として母情をかけて貰える親子関係ができると信じ、また兄や姉の賛同もあつたことから、右要望に応諾し、橋本房子からの求めにより自己の戸籍謄本二通をそのころ同女に差出し、その実現のための法的手続はすべて同女が履行することの話合いがなされた。

そこで、橋本房子は代書で、被告人及び実娘二名が自己と韓国人男子李永錫との内縁継続中に生まれた子であるが、事情があつて未だ自己の戸籍に就籍できなかつた旨を記載した書面を作成して貰つたうえ、これを芙蓉会へ持参して、同会の世話人に、その旨の被告人らの出生届書及び出生届遅延事由書を作成して貰つて、これらを芙蓉会を通じて在韓国日本国大使へ提出し、昭和四五年一月一七日付同大使館受理を経て、同年二月九日ころ本籍地の高知県土佐市役所に備付の橋本房子の戸籍に、婚外子として雲男、菊姫、淑姫が就籍された。そして、予て調査依頼していた身元引受人が大阪市から高知市へ移住していたことが判明して、その後の同年九月ころ、橋本房子は芙蓉会から高知市に居住している叔母一家が身元引受人になつてくれた旨を知らされたので、そのころ被告人に対し、自己の戸籍に被告人の就籍ができたし、日本での身元引受人もみつかつたので、間もなく日本へ連れて行ける旨を告げ、また橋本房子において、日本より自己及び被告人の戸籍謄本を取寄せるなど関係書類もととのえ、芙蓉会を通じて、自己及び被告人の日本入国許可申請手続をした結果、同年一一月一〇日ころ在ソウル日本大使館より右両名に対して日本への入国旅券の交付がなされ、ついで、そのころ被告人とともに二回にわたつてソウル駅近くの韓国法務局へ赴き、被告人の住民登録票を返納し、韓国から出国する手続を完了した。そして橋本房子は被告人とともに同年一二月九日ころソウルを出発し、韓国釜山港を経由して、同月一一日に日本国山口県下関市へ上陸し、二人は高知市内のアパートに同居するようになり、被告人は日本語の修得を始めるとともに、橋本房子と一緒にパチンコ店の従業員として働き始めたが、三か月後に肺結核のため日赤病院へ入院し、約三年間、療養生活を続け、橋本房子はその間、掃除婦等をしながら被告人に小使銭を与えていた。被告人は昭和四九年三月、病気が治癒して退院後は造船所の設計手伝等をしながら、前記アパートが手狭のため、その近隣のアパートを借りて独居を始め、同所で同年一〇月ころから、かねて入院中に知り合つた日本人女性長尾寿子(昭和一五年生)と内縁の夫婦として同棲し、そのころより同女の父親の遺産で生活するようになつたが、長尾寿子と親しくなつたころから、橋本房子との仲が必ずしも円満でなくなり、長尾寿子と同棲後は橋本房子と更に疎遠になり、昭和五一年五月ころ以降、長尾寿子と高松市へ転居後は音便も跡絶えがちであつたが、長尾寿子らにも橋本房子を母親と呼んでいた。その間の昭和五〇年二月ころ被告人は前記入院中に知り合つた飲食店経営者西村幸雄に韓国旅行の案内役を依頼され、同人を案内して韓国へ行くことになり、その渡韓のため地元の旅行業者を通じて旅券の発給申請(原判示第一の犯罪事実)をする際、高知県土佐市役所から筆頭者橋本房子とされた被告人の戸籍謄本を取寄せ、これを一見した事実があり、右経緯にかんがみると、被告人が同女の養子としてではなく、同女の長男として、菊姫、淑姫とともに就籍されていることを知つたものと推認されるが、しかし法的知識がない被告人としては、これがため直ちに被告人の戸籍の記載が法律上無効のものであつて、橋本房子の子としての身分がなく、日本人になつていなかつたとの認識は生じなかつたものと認められる。

(二)  上記事実認定に抵触する検察官の主張及び証拠資料に対する判断

(1)  原審検察官は、被告人が橋本房子の帰国にからんで、日本へ密入国しようとした理由は、韓国での兵役を免れるためであつたと主張し、右主張に副う証拠資料として、橋本房子の捜査官に対する各供述と原審及び当審公判廷における各供述がある。同女の右供述部分の要旨は、被告人の姉李雲子から電話で、被告人が軍隊に行くのを嫌つているので、日本へ連れて行つてほしいと頼まれたことがあり、また被告人自身からも軍隊に行きたくないので、連れて行つてほしいと頼まれたことがある(ただし、検察官に対する昭和五二年七月二〇日付供述調書では、被告人が兵隊に行くのはいやだと云つているのを聞いたことがあるが、そのために日本へ連れて行つてほしいと云つたことはない旨の相反する供述部分もあつて一貫した供述となつていない。)といぅものであるが、これらの依頼をされた日時が必ずしも明確でないが、その各供述のすべてを総合すると、その時期は橋本房子が日本へ引揚げる二年前ころ、即ち昭和四三年ころであるように理解され、またその時期は前段認定のように橋本房子が被告人に対して一緒に日本へ行つてくれるように要望した時期とも合致していることになるから、その関係では辻褄があうことになる。しかし、橋本房子の右供述部分の信憑性については強い疑いがある。即ち、橋本房子の側から積極的に被告人に対して日本へ同行してくれるよう要望した経緯のあることが十分に認められることにかんがみると、李雲子及び被告人から兵隊に行きたくないからと殊更理由を申立てる必要もないと考えられるのに、その理由を告げて被告人を日本へ同行してくれと頼んだというのは不自然というべきである。また、橋本房子の入国警備官に対する昭和五二年七月二日付供述調書によると、概要「私は内縁の夫尹吉同と昭和二〇年六月韓国ソウル市に移住し、昭和二九年までの間に三名の子供が生れたが、尹吉同には本妻がいたため、私は入籍してもらえず、子供三名も私生児となつたが、私が三五歳のとき夫尹吉同は死亡し、余りにも苦しい生活のため睡眠薬自殺をはかつたが、私を助けてくれた人が、在韓日本婦人会に連絡してくれ、その援助を受けて、日本へ帰国することになつたものであるが、苦しい生活をしていた当時、被告人の父李顕錫に大変世話になつた縁で、李親子と付合いが始まり、被告人は高校を退学させられていたが、私の営んでいた屋台のうどん屋でよく食い逃げされるのを守つてくれ、そのころ被告人の姉李雲子を知つたが、雲子の夫は韓国陸軍大尉で憲兵をしていたらしいが、同人から被告人が徴兵を嫌うので、日本人の私が日本へ引揚げるのであれば、私の長男として日本へ行かせてはどうかと入れ知恵されたと聞いている雲子より、私が引揚げる二年前に被告人がどうしても軍隊に行くのを嫌つているので、貴女の長男として日本へ連れて行つて欲しいと頼まれ、私の長男も被告人と友達であつて、長男からも被告人に対し、私を母親と思つて一緒に行つてもらいたいと頼んだりしたので、被告人を同行する話がまとまり、私の戸籍に被告人を就籍する手続は一切私がして、被告人を別に悪いことと思わず、長男の身替りとして私の戸籍に入れたものだが、いまお伺いしてこのことが法律違反となることを知り後悔している………」旨供述しているのであるが、右の供述中橋本房子の実子三名が私生児となつた点、夫尹吉同が死亡したとの点、被告人の父李顕錫(李永錫が正確)に世話になり付合があつたとの点、被告人が退学させられていたとの点等については事実に反するものと認められるが、橋本房子自身その一部について嘘の供述であるとして後に訂正の供述をしたものがあることも認められる。何故にこのような虚偽の供述をする必要があつたのか、必ずしも明らかではないが、この一連の供述を通じて窺えることは、橋本房子において被告人を日本へ同行した主たる理由が、被告人側の策謀、依頼に基づくものであることを強調する反面、橋本房子において不必要とも考えられる嘘言をもつて、自己の道義的責任の追及を軽減しようとする意図に出た疑いももたれるし、同女の法的知識が極めて浅薄で、法的事項を理解してこれに関する自己の真意を適確に表現する能力に欠けるものがあることも窺え、同女の供述の信憑性を高く評価することは相当でないというも過言ではなかろう。そして、一方被告人は橋本房子に対し、自分が軍隊に行きたくないから日本へ連れて行つてほしいなどと云つた覚えは全くない旨一貫して供述しているばかりでなく、被告人は高校生当時から肺結核に罹患していて、昭和四四年に受けた徴兵検査の結果では徴集免除となつたことが認められることをも総合すると、橋木房子の右の供述部分の信憑性には強い疑いが生ずるし、たとえ然らずとするも、被告人には徴集免除になつた以降においては、兵隊に行くおそれは殆んどなくなつたといえるのに拘らず、昭和四五年一二月に被告人が橋本房子と一緒に渡日したものであることを考えると、被告人が兵役を免れる目的で日本へ密入国したと推論するのは困難であるし、さらに付言すれば、仮りに兵役回避の意思も存在したとしても、これをもつて直ちに被告人と橋本房子との養子縁組の意思の存在を否定するに足る事由とすることはできないから、結局橋本房子の右供述部分は前段の事実認定を左右するものではない。

(2)  当審検察官は、被告人が昭和五二年七月一二日及び同月一三日の入国警備官の取調に対して、自分は韓国人の父李と日本人の母橋本房子の間に出生した旨供述をしているが、もし、被告人において橋本房子の養子になつたとの自意識を持つていたものとすれば、敢えて右のような虚偽の事実を強弁して弁解する必要はなく、当初から素直に、韓国人の間に生れたが橋本房子の養子になつた旨事実を述べれば足りることであることにかんがみれば、それは被告人に養子となつた自覚のなかつたことの証左といえる旨主張する。なるほど、被告人が右主張のとおりの供述をしていることが認められるが、当時被告人は自己が戸籍面で橋本房子の養子として登載されておらず、同女の子として就籍されていることを承知していたものと推認されることは前段認定のとおりであるから、現実の戸籍面に副つた供述をするのが最良の弁明と考えたとしても、法的知識にうとい被告人としては無理からぬところというべきであるから、被告人の右供述をもつて養子の自意識がなかつたと断ずる証左とはなし難い。

(3)  当審検察官は、被告人らがソウルを出発した昭和四五年一二月九日ころ被告人の姉李雲子が橋本房子に会つたことがあるほかは、被告人の実父その他の家族が橋本房子と一切交渉もなかつたこと及び客観的にも被告人が橋本房子の養子となる手続も、また帰化の手続も履行されていなかつたことからみると、被告人において養子になつた自覚は全くなかつたと認められるべきであると主張する。しかし、前段認定のように被告人の実父李永錫は当時被告人を全く放置し、事実上父子の親交もなかつたものであるから、被告人の養子縁組や渡日について、橋本房子と交渉をもたなかつたとしても、これを特に不可解視することは妥当でなく、また客観的に養子となる手続及び帰化の手続のなされていないことが認められるけれども、前段認定のように被告人は自己の戸籍謄本二通を橋本房子に交付したのみで、同女の養子となる法的手続は一切同女にまかせていたものであり、その後被告人においては橋本房子から養子となる手続が完了し、入籍できた旨告知され、現に在ソウル日本大使館から渡日の旅券の交付も受けたことであるから、被告人が橋本房子の告知内容を信用していたとしても、法的知識にうとい被告人としては無理からぬところであり、実際には養子縁組に必要な手続が履行されず、法律上有効な養子縁組が成立していなかつたけれども、被告人はそれを全く関知していなかつたから、被告人が養子となつた自覚を有していたと認めるのがむしろ当然というべきであり、右主張は採用することができない。

(4)  当審検察官は、被告人の入国警備官に対する昭和五二年七月一五日付供述調書は、被告人において真実を話すから調べてほしいと積極的に取調に応じて供述したものであり、しかも被告人の真実の父母、家族関係を初めて供述しているが、これは後日の同月一八日高松入国管理事務所に到着した同月一三日付戸籍謄本の氏名と合致して裏付けられ、特に信用すべきものといえるところ、右供述調書によると、被告人が橋本房子とともに同女の実子である如く周囲の人に思わしめる証拠造りをし、かつ、昭和四五年一一月ころソウルの法務局に行つた際、橋本房子の指示により同局係官に対し同女の私生児である旨被告人が虚偽の申告をした事実を告白していることに徴すれば、被告人には養子になつたとの自覚ないし意識があつたとは認められない旨主張する。なるほど、長尾寿子の入国警備官に対する昭和五二年七月一五日付供述調書及び原審証人田中弘毅の公判廷における供述によれば、被告人が昭和五二年七月一五日内妻の長尾寿子より正直に話すよう説得されて、被告人から積極的に入国警備官に供述するようになつたことは認められるが、しかし、それは被告人が従来橋本房子と父李永錫との間で出生した旨供述していたけれども、そのようなことは虚偽であることが取調官にはすでに明らかになつているので、これを正直に訂正するように説得され、その結果被告人は橋本房子の実子であるとの供述を固守しても、それがもはや通用しないものであることを知つて、これを訂正しなければ一層不利な立場に追い込まれるおそれがあると考え、その真実の実父母らの氏名を積極的に供述するに至つたものと認められるのであつて、ここに被告人が供述した実父母、家族関係者の氏名が検察官指摘の李永錫を筆頭者とする家族関係者の戸籍謄本の記名と合致しても、それは当然のことというべく、このような事情のみをもつて、直ちに右供述調書中の供述内容のすべてが特に信用すべきものと認めることはできない。そして、右供述調書中には、検察官指摘のように「私は私の父と内縁中に生れた私生児として、実は日本人である証拠造りに、日本人の友達の集会にも房子の子供として連れて行かれるようになつた」旨の供述記載部分があるが、しかし、その証拠造りというのは、具体的にどのようなことをしたというのか明らかでなく、橋本房子が日本人会へ被告人と同行し、同会の者らに被告人が橋本房子の子供だと紹介するとか、親子のように振舞うことを意味するというのであれば、それは被告人が養子となつたときにも、通用するものであり、それが特に実子であることを説明して紹介したという趣旨であるとすれば、日本人会の者にそれまでしなければならない必要性がなく、その供述部分自体が不自然、不合理なものとしてたやすく信用するに足らないものといえようから、右供述部分を根拠として被告人に養子となつたとの意識がないと認めることはできない。さらにまた、右供述調書中に、検察官指摘のように、被告人が昭和四五年一一月ころソウル駅近くの法務局に行つた際、橋本房子の指示により同局係官に対し被告人が父李永錫と橋本房子との間の私生児である旨虚偽の申告をしたことがある趣旨の供述記載部分があるほか、橋本房子の検察官に対する昭和五三年九月一日付供述調書中に、右の虚偽申告に符合する趣旨の同女の供述記載部分もあるが、韓国法務局は日本大使館が日本人と認めて発行した橋本房子及び被告人に対する旅券に基いて、両名の出国手続の処理のみを担当していた官署というべきであるから、原則として両名の実体的な身分関係を実質的に審査する権限がないものと解されるし、また被告人の住民登録票の返納を受けて、その出国手続を処理する上で、右実体審査の必要性があつたことを認めうる証拠資料もなく、橋本房子及び被告人の原審、当審各公判廷における各供述によれば、右の虚偽申告をした事実がない旨供述しており、これらの諸事情にかんがみると、結局右の虚偽申告をしたとの供述部分は未だ信用するに足らないものと認められるので、右虚偽申告を前提とする主張もまた採用することができない。

(5)  当審検察官は、被告人が入国警備官の取調に際し、また裁判官の勾留尋問に際して、本件各公訴事実をすべて認める趣旨の供述をしており、これらの証拠資料により被告人は自己が韓国籍の外国人であることの認識を有していたと認めるべきであると主張する。しかし、その自供当時被告人が本件公訴事実に関する防禦上の法的問題点を十分理解し、自己の真意を適確に表現する能力があつたとは認め難く、被告人が現に橋本房子の実子でなく、また同女との養子縁組の届出をした事実もない以上、法律上日本人になりうる余地はないと理づめで追及されれば、韓国人であることを否定すべくもないことになり、弁明のすべもなく自白したと推察すべき余地があるし、しかもその自白にかかる犯意形成の過程について事理を十分に尽くした説明もないので、その捜査官に対する自白はいまだ措信するに足らないし、勾留裁判官に対する自白も被告人が捜査官に対すると同様の心境で供述したものと推認するに難くないから、これもまた措信するに足らず、右主張はすべて採用することができない。

(三)  結論

(1)  前記(一)において認定した事実関係によれば、韓国人であつた被告人は商業高等学校在学中の昭和四三年初ころ、日本人である橋本房子から同女の養子になつて日本へ移住し、老後の世話もして貰いたい旨要望されて、これに応諾し、その法的手続に必要な書類として、自己の戸籍謄本を同女に差出し、これが実現のための法的手続は一切同女に任せていた。ところが、橋本房子は法的知識がうとく、芙蓉会などの協力でその法的手続がすすめられたが、現実には養子縁組の手続は履践されず、被告人を同女の婚外子として出生届がなされて、昭和四五年二月九日ころ同女の日本国の本籍地である土佐市役所備付の戸籍にその旨登載がなされるに至つた。そして、橋本房子の日本へ引揚後の身元引受人ができた同年九月ころ、同女は被告人に対し、右の実際の入籍方法は告知することなく、ただ被告人を自己の戸籍に入籍でき、日本での身元引受人もできたので、近く渡日できる旨を告知し、ここに被告人において自己が同女の養子になり、日本人になると同時に韓国人でなくなつたと考え、同女に渡日に必要な手続の履践を任せ、同女においてその一切の手続を履行し、同年一一月一〇日ころ同女及び被告人が在ソウル日本、大使館に出頭して、両名に対する日本への入国旅券の交付を受け、ついで韓国法務局に出頭して、韓国より出国する手続を完了し、同年一二月一一日渡日し、高知市で同居生活を営むに至り、爾来両名は本件各犯罪時においても事実上の養親子関係を継続していたことが認められるのである。

(2)  右の経緯、事情によれば被告人は若年者で法的知識もうとく、ただ橋本房子の言を信じ、真実同女の養子になれたものと考え、同女に随行して渡日したものと認めるのが相当であつて、単に養子に藉口して不法入国しようとしたものでないことは、渡日後における被告人の生活状態に徴しても窺い得るものがある。ただ、渡日後年月の経過するに従つて、次第に両者の事実上の親子関係が疎外化する傾向をたどつたことは否定できないが、未だ右判断を左右すべき事由とは認め難い。

(3)  さすれば、被告人は橋本房子の実子ではないから、たとえ、戸籍上で実子の登載がなされたとしても、それは法律上無効のもので、これにより日本人としての資格を取得できないのは勿論、養子縁組の要式手続及び帰化手続も履践されていないから、客観的には養子縁組による日本人の資格取得ができていなかつたけれども、被告人は同女の養子になつたと信じ、これにより日本人になると同時に韓国人ではなくなつたと信じていたものであるから、結局被告人はいわゆる故意犯である本件各犯罪の犯意の点について事実の錯誤があつたものと認められるので、その故意の成立が阻却されるものといわなければならない。弁護人は、原判示第三の外国人登録法違反罪の関係では法律の錯誤に当る旨主張するが、被告人は外国人である認識を欠いていたものであるから右主張は理由がなく、同罪の関係についても、他と同様犯意について事実の錯誤があるものとして、その故意の成立が阻却されるものと認められる。

二  したがつて、本件各公訴事実については、いずれも犯罪の証明がないというべきであるから、犯意が肯認できるとして有罪を言渡した原判決には事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、その余の控訴趣意(量刑不当の主張)に対する判断を経るまでもなく、原判決は破棄を免れない。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所において直ちに判決する。被告人に対する別紙記載の各公訴事実はさきに説示したとおりすべて犯罪の証明がないので、刑訴法四〇四条、三三六条により無罪の言渡しをすることとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小川宜夫 裁判官 滝口功 裁判官 川上美明)

(別紙)

公訴事実

被告人は、韓国に国籍を有する外国人であるが

第一 昭和五〇年二月一九日、高知市丸の内一丁目二番二号所在の高知県庁において、旅行業者を介し、高知県知事を経由して外務大臣に対し、数次往復用一般旅券の発給申請をなすにあたり、日本国籍を有しないのに、右旅券発給申請書に高知県土佐市宇佐町宇佐一、二五〇番地に本籍を有する日本人橋本雲男である旨虚偽の記載をして申請し、同月二六日、右高知県庁において同県知事から、右申請にかかる橋本雲男名義の数次往復用一般旅券の交付を受け

第二 有効な旅券又は乗員手帳を所持しないで、同年三月一九日、韓国ソウルから空路兵庫県伊丹市等所在の大阪国際空港に到着し、もつて不法に本邦に入国し

第三 前記第二記載のとおり同年三月一九日、本邦に入国し、高知市薊野一、四二七番地五二、尾原アパートに居住していたものであるが、右上陸の日から六〇日以内にその居住地の高知市長に対し、外国人登録の申請をしないで、その期間をこえ昭和五二年七月一二日ころまで、同所等本邦に居住在留したものである。

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